耳を塞がれた子守唄:全体主義が子どもたちの世界から消した音
耳を塞がれた子守唄:全体主義が子どもたちの世界から消した音
子どもたちの成長にとって、「音」は非常に大切な役割を果たします。親が歌ってくれる子守唄、友達との遊び歌、学校での合唱、街で流れるメロディー。これらの音は、子どもたちの感性を育み、安心感を与え、時には楽しさや希望を運びます。
しかし、全体主義体制下では、子どもたちの耳に届く「音」もまた、支配の対象となりました。単に騒音が消えるのではなく、体制にとって都合の悪い音、あるいは体制を利さない音が意図的に消され、代わりに体制を讃え、思想を植え付ける音が満ち溢れたのです。今回は、全体主義が子どもたちの聴覚世界から何を奪い、何を押し付けたのか、そしてそれが子どもたちの心にどのような影響を与えたのかを見ていきたいと思います。
体制が支配しようとした「音」の世界
全体主義体制は、人々の思想や感情を統制するため、あらゆるメディアを利用しました。ラジオ、拡声器、学校教育、集会など、音が伝わる手段はすべてプロパガンダの道具となり得ました。子どもたちの世界も例外ではありませんでした。
国家が定めた「正しい歌」が作られ、学校で繰り返し歌うことが強制されました。これらの歌は、体制や指導者を讃え、敵対者を非難し、国民に義務や犠牲を強いる内容でした。【動画】は当時の子ども向けプロパガンダ合唱の映像の一部ですが、その力強さと繰り返しは、聞く者に強烈な印象を与えたことでしょう。
一方で、体制にとって不都合な音は消されていきました。例えば、特定の民族や宗教に関連する伝統的な歌、自由な精神を育むような物語を歌った歌、あるいは体制批判につながる可能性のある民謡や海外の音楽などが禁止されました。親が子どもに歌っていた子守唄ですら、歌詞の中に体制が良しとしない表現が含まれていれば、歌うことをためらったり、歌詞を変えたりする必要がありました。
消えたささやき、響いた号令
全体主義下の多くの地域で、子どもたちの日常の「音」は大きく変わりました。
家の中では、親が子どもに語りかける声が小さくなったかもしれません。壁に耳あり、という言葉が示すように、密告を恐れて本音を話すことが難しくなった時代です。特に、体制への不満や疑問を含むようなささやきは、子どもに聞かせないように、あるいは聞かせても他言しないように、細心の注意が払われたことでしょう。親から子へと口伝えで受け継がれるはずだった物語や歌が、途絶えてしまったケースも少なくありません。
学校では、自由な遊び時間や、友達と声を合わせて遊ぶわらべうたのような時間は減り、代わりに大声で校歌や体制歌を歌うことが求められました。規律正しい行進の足音や、号令を復唱する声が響き渡りました。子どもたちは、大きな声で「正しい音」を出すことを奨励され、小さな声や個人的な音は無視されるか、抑圧されました。
街に出れば、広場のスピーカーから常に体制のメッセージや音楽が流れています。【写真1】は当時の街頭スピーカーの様子ですが、これが一日中、体制の音を流し続けていたのです。静かに空を眺めたり、虫の声に耳を澄ませたりするような、個人的で内省的な時間が、体制の「音」によって邪魔されました。
ある子どもの回想録には、このような記述があります。「夜、母はこっそり古い歌を歌ってくれたことがありました。でも、声はとても小さくて、窓の外の音を気にしながらでした。普段学校で歌う歌とは違って、なんだか心にしみる歌でした。でも、二度と歌ってはいけない、と母は言いました。」このように、子どもたちは体制の「正しい音」と、親から伝わる「秘密の音」の間で引き裂かれるような経験をしました。
心に刻まれた「見えない音」の影響
こうした聴覚環境の変化は、子どもたちの心に様々な影響を与えました。
まず、子守唄や親の優しい声といった、安心感や愛情を伝える音が減少したり歪められたりしたことは、子どもたちの情緒的な安定に影響を与えた可能性があります。安心して眠りにつくための歌が、体制を讃える歌に変わってしまったとしたら、子どもの心はどう感じたでしょうか。
次に、自由な歌声や遊びの音の抑圧は、子どもたちの創造性や自己表現の機会を奪いました。歌うこと、声を出すことは、感情を発散し、自分を表現する自然な行為です。それが制限されることは、子どもたちの精神的な成長にブレーキをかけることになります。
さらに、常に体制のプロパガンダに満ちた「音」に囲まれることは、子どもたちの価値観や世界観を一方的に形成する強力な手段となりました。批判的に聞く力が育まれないまま、繰り返されるメッセージは「真実」として子どもたちの心に刻まれました。自由な発言が許されない環境では、【図A】で示されるような情報統制の一環として、子どもたちは「正しい」と感じる音だけを発し、そうでない音には耳を塞ぐことを学ぶ必要がありました。
現代社会への示唆
全体主義下の「音の支配」の歴史は、現代を生きる私たちにも重要な示唆を与えてくれます。現代社会は、インターネットやSNSの発達により、あらゆる種類の「音」や情報が溢れかえっています。私たちは、意識しなければ常に他者によって発信された音(情報、メッセージ)に晒されています。
歴史を振り返る時、私たちは立ち止まって考えるべきです。今、私たちの耳に届いている「音」は、本当に多様で自由なものなのでしょうか?特定の意見だけが強調されたり、不快な情報が意図的に隠されたりしていないでしょうか?特に、子どもたちが触れる音や情報が、特定の思想や価値観に偏っていないか、注意深く見守る必要があるでしょう。
最後に
全体主義は、物理的な自由や財産だけでなく、子どもたちの心の中の、そして耳に届く「音」の世界までも支配しようとしました。子守唄のような個人的で温かい音から、自由な遊びの音、そして真実の声まで、多くの音が消され、代わりに体制の都合の良い音が響き渡りました。
あの時代を生きた子どもたちが耳を塞がざるを得なかった音、あるいは耳を塞がなければならなかった音の歴史は、私たちに多くのことを教えてくれます。現代社会で子どもたちが安心して、自由に、そして豊かに「音」に触れ、自らの声で世界を表現できる環境を守ること。これは、過去の悲劇から私たちが学ぶべき、大切な教訓の一つではないでしょうか。