失われた子ども時代

描けなかった絵、歌えなかった歌:全体主義が奪った子どもたちの創造性

Tags: 全体主義, 子どもたち, 創造性, 表現の自由, 教育, 歴史

描けなかった絵、歌えなかった歌:全体主義が奪った子どもたちの創造性

子どもにとって、絵を描くことや歌を歌うことは、世界を理解し、自分の内面を表現するための大切な手段です。無邪気な落書き、心に浮かんだメロディ、それらは子どもたちの豊かな創造性の証であり、成長に欠かせない営みと言えるでしょう。

しかし、歴史を振り返ると、全体主義体制の下では、こうした子どもたちの自由な表現や創造性が厳しく制限され、時には完全に奪われてしまうという痛ましい現実がありました。なぜ、全体主義は子どもたちの創造性を恐れたのでしょうか。そして、それは子どもたちの心にどのような影を落としたのでしょうか。

この記事では、全体主義が子どもたちの表現活動に与えた影響に焦点を当て、失われた子どもたちの創造性について考えていきます。

体制に都合の良い「創造」だけが許された世界

全体主義体制は、国民一人ひとりの思想や感情を厳しく管理しようとします。それは子どもたちも例外ではありませんでした。むしろ、将来を担う子どもたちの心を体制の価値観で染め上げることが、体制維持のために非常に重要だと考えられていたのです。

子どもたちの創造性も、この管理の対象となりました。自由に考え、感じたままを表現することは、体制にとって予測不能であり、危険な要素と見なされたのです。

例えば、学校の図画工作の時間に「将来なりたいもの」の絵を描かせても、体制が求める職業(農民、労働者、兵士など)以外の夢を描くことは歓迎されませんでした。【写真1】は、当時の学校で模範とされた絵画の例ですが、そこには体制を賛美する内容や、工業・農業生産の重要性を示すモチーフが多く見られます。子どもたちが描きたいと思う空想の世界や、個人的な感情を表現した絵は、往々にして低く評価されるか、あるいは「思想的に問題がある」として描き直しを命じられることもありました。

歌についても同様です。子どもたちが学校や集会で歌う歌は、ほとんどが体制や指導者を称賛する内容、あるいは労働や兵役を奨励する内容でした。【動画】で当時の少年少女合唱団の映像を見ると、一糸乱れぬ行進や力強い歌声が印象的ですが、そこで歌われるのは厳しく選ばれた「正しい歌」だけです。子どもたちが自分たちの日常や素朴な感情を歌にしたとしても、それを公の場で歌うことは許されませんでした。自由にメロディを生み出す遊びも、制限されることがありました。

子どもたちの内面に刻まれた抑圧

このような環境は、子どもたちの内面に深い影響を与えました。

ある子どもは、見たままの風景を描きたくても、体制にとって都合の良い景色(例えば、美化された工場や集団農場)を描かなければならないことに苦痛を感じたと言います。想像力を働かせ、ファンタジーの世界を描こうとすると、「非現実的だ」「思想が甘い」と批判され、絵を描くこと自体が嫌いになってしまった子もいたそうです。

また、心に浮かんだ自由な歌を口ずさむことを恐れるようになった子どもたちもいました。もし、体制に批判的と取られるような歌詞が誰かの耳に入れば、自分だけでなく家族にも危険が及ぶかもしれないという恐怖が、小さな心に重くのしかかったのです。日記や詩といった個人的な表現も、検閲を恐れて自由に書くことができず、心の内に感情を押し込める習慣がついてしまった子どもたちの証言は少なくありません。

手記や回想録には、「本当は空を飛ぶ鳥を描きたかったけれど、指導員に『そんなものは何の役に立つ』と言われた」「母親が聞かせてくれた古い歌を口ずさんだら、学校で習った歌以外は歌ってはいけないと叱られた」といったエピソードが綴られています。これらの話は、単に表現の機会を奪われただけでなく、子どもたちの感性や好奇心、そして自分自身を自由に表現したいという根源的な欲求が抑圧されていたことを物語っています。

【図A】は、ある全体主義国家における子どもの文学作品の検閲状況を示すグラフですが、ファンタジーや個人的な感情を描いた作品が激減し、体制賛美や教訓的な物語が支配的になった様子が分かります。これは、子どもたちが触れる物語や表現の世界全体が、意図的に狭められていたことを示しています。

現代社会への示唆

全体主義体制下で子どもたちの創造性が奪われた歴史は、現代社会に生きる私たちにも重要な教訓を与えてくれます。

現代は情報化が進み、インターネットやSNSを通して様々な情報や表現に触れることができます。一見、自由な表現の場が増えたように見えます。しかし、その一方で、特定の意見や表現が猛烈な批判にさらされたり、「炎上」を恐れて多くの人が無難な表現に終始したりする傾向も見られます。また、教育の場でも、効率性や標準化が重視されるあまり、子どもの自由な発想や試行錯誤を伴う創造的な活動がおろそかにされていないか、という問いも生まれます。

歴史が教えてくれるのは、子どもたちの創造性は、単なる個人的な趣味活動ではないということです。それは、多様な価値観を認め、未知のものに挑戦し、より良い未来を想像するための力の源です。全体主義が創造性を恐れたのは、創造性が既存の枠組みや権威にとらわれない自由な思考を生み出すからです。

結びに

描けなかった絵、歌えなかった歌は、子どもたちの失われた可能性の象徴です。全体主義の時代を生き抜いた人々の中には、大人になってからようやく、抑圧されていた表現欲求を解放し、自らの経験を芸術作品として昇華させた人もいます。

私たちは、この歴史から何を学ぶべきでしょうか。それは、子どもたちの自由な発想を大切にし、多様な表現を認め、彼らが安心して自分の「描きたい絵」や「歌いたい歌」を見つけられるような環境を築くことの重要性ではないでしょうか。過去の痛ましい経験を忘れず、現代社会における子どもたちの創造性を守り育んでいくことこそが、未来への大切な一歩となるでしょう。