失われた子ども時代

『正しい』遊びと隠された時間:全体主義下の子どもたちの遊び

Tags: 全体主義, 子ども, 遊び, 日常生活, 教育, 精神的影響

導入:遊びが奪われるということ

子どもにとって遊びは、単なる楽しい時間ではありません。遊びを通じて、子どもは世界を学び、創造性を育み、社会性を身につけ、自己を表現します。それは心身の発達に不可欠な営みです。しかし、全体主義体制下では、この当たり前とも思える「遊び」が、国家のイデオロギー統制の対象となりました。

遊びは時に、子どもたちの自由な発想や個人的な感情、集団とは異なる価値観を生み出す可能性があります。全体主義は、個人の内面や自発性を危険視するため、子どもたちの遊びにまで介入し、管理しようとしたのです。一体、全体主義は子どもたちの遊びをどのように変質させ、それは子どもたちの心にどのような影響を与えたのでしょうか。この記事では、歴史の記録から、全体主義下の子どもたちの「遊び」の実態に迫ります。

全体主義が塗り替えた遊び場

全体主義体制は、子どもたちを国家にとって都合の良い人間に育てるため、教育だけでなく、遊びや余暇活動にまで深く関与しました。彼らは、子どもたちが自発的に行う自由な遊びを制限し、代わりに体制のイデオロギーを浸け込むための「正しい遊び」を奨励しました。

例えば、多くの全体主義国家では、子ども向けの組織が作られ、そこでの活動が奨励されました。それは軍事訓練の要素を含んだ集団行動であったり、体制のプロパガンダを歌やゲームに取り入れたりするものでした。遊びを通じて、子どもたちは競争心、規律、そして国家への忠誠心を植え付けられました。特定の英雄を模倣する遊びや、敵対勢力を仮想敵とするゲームなども行われました。【写真1】は、当時の子どもたちが集団で活動する様子を写したプロパガンダ写真です。そこには統制された規律正しい姿が映し出されています。

一方で、子どもたちが地域社会で自然発生的に行う伝統的な遊びや、個人的な空想の遊びは危険視される傾向にありました。これらは統制が難しく、国家の目を逃れた人間関係や個人的な感情が育まれる場となりうるからです。親から子へと受け継がれる手遊び歌や昔話までもが、体制にとって不都合な要素を含んでいないか検閲された例もあります。子どもたちが路地裏や空き地で自由に遊ぶことも、監視の目が光るようになり、安全な遊び場は管理された広場や組織の施設へと限定されていきました。【図A】は、管理された子ども向け施設の配置図の一例です。自由な空間が制限され、プログラムされた活動が中心となっていることが見て取れます。

隠された時間:規制の中での子どもたちの工夫

しかし、全体主義の強固な規制をもってしても、子どもたちの遊びたいという本能や、自由な心を完全に奪うことはできませんでした。子どもたちは、大人の目を盗んで、あるいは体制が奨励する活動の隙間を縫って、自分たちなりの「遊び」を見つけようとしました。

ある回想録には、子どもたちが体制を茶化すような歌を密かに口ずさんだり、禁止されている本の内容を友達とこっそり語り合ったりしたエピソードが記されています。また、体制が推奨する活動の道具を別の遊びに転用したり、見張りの目をかいくぐって短い自由な時間を共有したりといった工夫も生まれていました。手作りの隠れ場所を作り、そこだけで許される秘密の遊びに興じた子どもたちの話もあります。

こうした「隠された時間」での遊びは、子どもたちにとって息抜きの場であると同時に、管理された日常とは異なる自分たちの世界を守るための小さな抵抗でもありました。それは、体制への公然たる反抗ではなく、抑圧された状況下で子どもたちが精神の自由を保ち、人間らしさを失わないための必死の試みでした。

一方で、常に監視されているかもしれないという恐怖や、仲間の中にも密告者がいるかもしれないという疑念は、子どもたちの遊びにも暗い影を落としました。安心して心を開ける友達を見つけること、自由な発想を率直に表現することさえ、危険を伴う行為となりうるのです。遊びの中でさえ、子どもたちは内面に葛藤を抱え、周囲への警戒心を強いられました。

【動画】は当時の子ども向けプロパガンダ映像の一部です。子どもたちがいかに体制に従順で、規律正しくあるべきかが強調されています。こうした映像が流れる中で、子どもたちは「正しい遊び」のイメージを刷り込まれていったのです。

現代社会への示唆:遊びを守るということ

全体主義下の子どもたちの遊びの経験は、現代社会に生きる私たちに何を教えてくれるのでしょうか。それは、遊びが単なる娯楽ではなく、子どもの健やかな成長と精神的な自由にとって不可欠な要素であるという揺るぎない事実です。

現代社会においては、全体主義のような露骨な統制はありません。しかし、受験競争や過剰な習い事、デジタルデバイスへの没頭、そして安全管理の名の下での公園遊びの制限など、形を変えた要因が子どもたちの「自由な遊び」の時間を奪っている現状はないでしょうか。効率や成果を重視するあまり、目的のない、ただ楽しいだけの遊びの価値が見過ごされてはいないでしょうか。

全体主義が子どもたちの遊びに介入したのは、遊びが持つ創造性や自発性、そして統制されにくい人間関係を育む力を恐れたからです。裏を返せば、これらの力が、個人の精神的な自由や、体制に盲従しない批判的精神を育む可能性を秘めていることを、体制側は理解していたとも言えます。

過去の過ちから学ぶべきは、子どもたちが管理された「正しい活動」だけでなく、自分の興味関心に基づき、仲間と自由に工夫しながら遊べる環境と時間を保障することの重要性です。それは、子どもたちの創造性や問題解決能力を育むだけでなく、彼らが将来、画一的な価値観に囚われず、自らの頭で考え、多様な他者と豊かな関係を築くための土台となります。

結論:遊びを取り戻すために

全体主義下で子どもたちの遊びは、国家の道具として変質させられ、自由な時間は奪われました。しかし、子どもたちはその中でも、小さな工夫や秘密の共有を通じて、自分たちの世界を守ろうとしました。

遊びは、子どもが子どもらしく生きるために必要不可欠な営みです。全体主義が「遊び」にまで介入した歴史は、私たちに、子どもの遊びが持つ根源的な価値と、それを守ることの重要性を強く訴えかけています。現代社会において、子どもたちの「遊び」を取り巻く環境は複雑化しています。私たちは、過去の教訓を胸に、子どもたちが心ゆくまで自由に遊び、その中で豊かな内面世界を育むことができる社会を、どのように築いていくべきかを問い直す必要があるでしょう。遊びは、未来を担う子どもたちの自由な精神と創造性を育むための、最も大切な「宝物」の一つなのですから。