密告が「勇気」とされた世界:全体主義下の子どもたちの心の傷
はじめに:密告という名の「勇気」
平和な社会において、誰かの秘密を暴露したり、行動を当局に報告したりする「密告」は、多くの文化で否定的な行為と見なされます。裏切りであり、信頼を損なう行為だからです。しかし、歴史上の特定の時代、特に全体主義体制下では、この価値観が大きく転換させられることがありました。「密告」が、体制への忠誠を示す「勇気ある行動」として奨励され、時には義務とされたのです。
このような環境で、子どもたちはどのように振る舞ったのでしょうか。大人が作り出した、ねじれた価値観の中で、子どもたちは何を学び、何を感じたのでしょうか。そして、その経験は幼い心にどのような傷を残したのでしょうか。この記事では、全体主義が子どもたちに強いた密告という行為が、彼らの内面や人間関係に与えた影響について、歴史的な視点から探っていきたいと思います。
体制が子どもに教えた「正しい」行い
全体主義国家は、国民一人ひとりを管理し、統制することを目標とします。そのためには、国民同士がお互いを監視し、体制に批判的な言動を当局に報告するネットワークが有効でした。そして、この監視の目を、大人のみならず子どもたちにも広げようとしました。
学校教育や青少年組織は、そのための重要な手段でした。子どもたちは、「良い国民」であるためには、体制の教えを忠実に守り、体制に敵対する者や、体制に反する考えを持つ者を見つけたら、たとえ家族や友人であっても報告するべきだと教えられました。これは「愛国心」や「共同体への貢献」といった美名のもとで行われました。当時の教科書やプロパガンダは、【図A】に示されるように、「体制を守る少年少女」を英雄として描き出し、子どもたちに密告を促す内容を含んでいるものもありました。
子どもたちは純粋で、教えられたことを信じやすい傾向があります。学校で先生に褒められたい、仲間から認められたいという気持ちも強いでしょう。体制はこうした子どもたちの特性を利用し、「密告」という行為を、「勇気ある行い」「正義の味方」になることだと刷り込んだのです。
子どもたちの目に映った世界と心の葛藤
しかし、子どもたちが教えられた通りに「密告」を実行したとき、彼らの目に映ったのは、必ずしも英雄的な結果だけではありませんでした。報告した相手が逮捕されたり、家族が苦しんだりする様子を目の当たりにすることもありました。
当時の子どもたちの手記や回想録には、こうした密告の経験が複雑な感情をもたらしたことが記されています。ある元少年兵の手記には、「先生の教えを守って隣の家のおじさんのことを報告したら、おじさんは連れて行かれてしまった。私は正しいことをしたはずなのに、胸がチクチク痛んだ」というような記述が見られます。
また、子どもたちは、大人たちの言動の矛盾にも気づき始めます。学校では体制を称賛する先生が、家では体制への不満を口にしているのを聞いて困惑したり、友人の親がこっそり体制に批判的な本を読んでいるのを知って、それを報告すべきか悩んだりしました。【写真1】は当時の子どもたちの様子を捉えたものですが、その笑顔の裏に、このような葛藤を抱えていた子も少なくなかったのかもしれません。
密告を巡る経験は、子どもたちの間に不信感を生みました。友だちと自由に話せなくなり、家族にも本音を言えなくなる。常に誰かに聞かれているかもしれない、報告されるかもしれないという恐怖の中で、子どもたちは心の中に壁を作り、感情や思考を隠すことを覚えていきました。これは、子どもたちの健全な成長に不可欠な、他者への信頼感や自己肯定感を深く傷つけるものでした。
現代社会への示唆:子どもたちの環境を守るために
全体主義下で子どもたちが経験した「密告」という行為は、私たちに多くの教訓を与えてくれます。
一つは、権力が教育やメディアを利用して、子どもたちの価値観を歪めることの危険性です。純粋な子どもほど、大人の都合の良いように操作されてしまう可能性があります。【動画】で見るような当時のプロパガンダは、現代の感覚からすると露骨かもしれませんが、現代社会においても、子どもたちが触れる情報が一方的であったり、特定の価値観だけを押し付けたりしていないか、注意深く見守る必要があります。
もう一つは、社会の信頼関係が子どもたちの心の安全にどれほど重要かということです。人々が互いに疑心暗鬼になり、密告しあうような社会では、子どもたちは安心して自分を表現することができません。家庭や学校、地域社会といった子どもを取り巻く環境が、温かく、信頼に満ちた場所であることの重要性を改めて認識させられます。
そして、何よりも、子どもたちを政治的な目的のために利用することの非人道性です。子どもは守られるべき存在であり、大人社会の論理や争いに巻き込まれるべきではありません。過去の歴史から、子どもたちに「大人」の役割や責任、あるいは倫理的に歪んだ価値観を押し付けることの悲劇を学ぶべきです。
終わりに
全体主義が子どもたちに強いた密告という行為は、彼らから無邪気さや信頼を奪い、心の奥深くに癒えない傷を残しました。密告が「勇気」とされた世界は、倫理観が転倒し、人間性が失われた悲しい世界でした。
私たちは、この歴史の経験から目を背けてはなりません。子どもたちが過去と同じような悲劇を繰り返すことのないよう、偏りのない情報に触れられる環境を整え、多様な価値観を認め、何よりも、子どもたちが安心して他者を信頼し、自分自身であることのできる社会を築いていく責任があるのではないでしょうか。子どもたちの純粋な心が、政治やイデオロギーによって傷つけられることのないよう、私たちは常に注意深くある必要があります。